
瀬戸内の小さな港町
自分の居場所って、どこにあるんだろう。
あの頃の僕は、そんなことばかり考えていた。
僕の名前は、山下健二。
東京でWebメディアのライターをやっている。
いや、やっていた、と言う方が正しい。
ライター業を始めて5年。
東京での仕事や暮らしは、いつも忙しなくて、
時間に追われ、膨大な情報にまみれて、
次第に現実感のようなものが薄れていった。
東京は、僕の居場所じゃない。
その想いは、いくら時間が経っても
拭い去ることができなかった。
幸運にも、ライターという仕事は、
オンラインでも対応ができる。
いつしか僕は田舎暮らしを求めて、
移住を考えるようになった。
移住先としての条件は、海が見える街。
釣りが好きなのと、海沿いの街というのは、
やはり憧れのライフスタイルだから。
そして、これまでの僕のことを誰も知らない街。
そうして全国の移住先候補に
実際足を運んで、第二の住処を探した。
その中で、一番印象に残ったのが
香川県さぬき市津田だった。
おだやかな瀬戸内海に面していて、
津田の松原という松林のあるビーチが
有名な景勝地だが、人の往来は少なく
こじんまりとした港町という雰囲気。
リサーチがてら、地元の企業が手がけている
ヴィラに泊まって、街を散策してみたが、
海沿いにオシャレな飲食店や雑貨店なども点在していて、ただのさびれた港町ではない雰囲気もあった。
そうして、桜が咲き始めた季節。
僕は、東京の暮らしに終わりを告げて、
瀬戸内の街・津田に移住した。
不思議と東京を去ることに、
なんの感傷も、寂しさもなかった。
海といえば、なまり色の東京湾しか
なじみのなかった僕にとって、
目の前に広がる、青々とした瀬戸内海は
絶景以外のなにものでもない。
海の向こうには、ビルではなく、
点々と緑色の島が浮かんでいる。
これが、多島美か。
津田で暮らし始めて、
僕は暇さえあれば海を眺めに来ていた。
その日は、どこからか白い猫がやってきて
僕の座っている防波堤の隣でくつろぎ始めた。
左右の目の色がちがう
白い毛並みがきれいな猫だった。
昔から、なぜか猫だけには好かれる。
ためしに手を伸ばしてみると、
白い猫は、チラリとこちらを見て、
「どうぞ」と言わんばかりに、
撫でることを許してくれた。
「あら、しらす、気持ちよさそうやね」
ふと、犬を連れた女性から声をかけられた。
見るからに健康そうな60代くらいの女性だ。
「しらす…この子、しらすって言うんですか?」
「そう、この子は近くの神社で暮らしとって、
この町の守り神みたいな子なの」
「守り神?」
「ほら、よう見て。指が6本あるやろ?
これは漁師にとって幸運をもたらす猫なんやて。
船の中のネズミを器用に取ってくれるから」
「あぁ、ヘミングウェイですね」
と思わず、僕はつぶやいた。
「老人と海」を執筆した文豪ヘミングウェイが
6本指の猫を愛していた話を思い出したからだ。
「ヘミングウェイ? 知らんけど」
女性は笑いながら、犬の散歩に戻っていった。
「キミは守り神なんだね」
そんな僕の声に反応してか、
しらすは身体をピクッとして立ち上がり、
防波堤の上をゆっくり歩き始めた。
そして、しばらくすると立ち止まり、
振り返って、こちらを見つめてくる。
左右ちがう色をした神秘的な瞳。
片方が青で、片方が緑。
まるで瀬戸内の海と島のようだ。
僕も立ち上がって、しらすの後に続いた。
今日は、しらすと街の散策といこう。
津田の海岸沿いには、空き家や
朽ちた倉庫なども放置されていた。
かつては、ここにも多くの人たちが
働いていたのだろう。
しばらく歩いていくと漁港に着いた。
漁港では、老人がひとり船で作業をしている。
70代か80代くらいだろうか。
高齢になっても現役漁師というのが
「THE海の男」という感じでかっこいい。
しらすは小魚でも狙っているのか、
船に向かってトコトコと歩き出した。
その後ろをついていき、僕は老人に話かけた。
「こんにちは」
老漁師は、ゆっくり時間をかけて振りかえった。
その眼光の鋭さに、僕の中にある
ライターとしての経験が警告音を鳴らす。
「この人は、閉じている人だ」
これまで何千人という人と話をしてきた職業柄、
相手が心を閉ざす人なのか、オープンな人なのか、
瞬時に判断できるようになっている。
ただ、警告を上回る好奇心が僕を前に進ませた。
「何が獲れるんですか?」
老漁師は、何も言わずに作業に戻った。
僕は気にせずに近寄っていく。
すると彼は、こちらに目もくれずに言った。
「おい、足元見てみぃや」
僕の足元には、古びた網があった。
「あっ!」と僕は飛び跳ねた。
「外モンは、こっちの大切なもんに
勝手に踏み込んできよるわ」
老人の言葉に、僕は何も言い返せなかった。
それも移住の現実だと、直感的に感じたからだ。
「すみませんでした」
それだけ言って、僕は港から離れた。
その日の夜、モヤモヤしていた僕は、
「心が開いている人」と話がしたくて、
ジョーさんのお店に行くことにした。
ジョーさんはイタリアンカフェをやっていて
以前、リサーチで津田に来たときに
イタリア人のごとく気さくに話かけてきて、
色々と移住の相談にも乗ってくれた人だった。
ジョーさんのお店の扉を開けると、
どうやら店内には先客がいた。
カランカランと扉が開く音と同時に
ジョーさんとお客さんがこちらを振り返って、
「ほら、おれの勝ちだ!」
とお客さんが嬉しそうに言った。
くそーと悔しがるジョーさんに何事か尋ねると
どうやら、次にお店に入ってくるのが
男か女かで賭けをしていたらしい。
お客さんはジョーさんと同い年くらい。
今風で言うと「イケオジ」な洒落た人だった。
イケオジは「だから、おれは絶対負けないんだって」
と言いながら、ウィスキーのロックをあおった。
「今日もタダ酒、飲まれるのかぁ」
とジョーさんは肩を落として
メニュー表を僕の前に持ってきた。
ジョーさんのお店は、山小屋のロッジ風で
観葉植物やレコード、本などが店内に並び、
JAZZが流れる居心地のいいお店だ。
イケオジのお客さんもジョーさんと同じく
「心が開いている」人だった。
そのオープンな空気感に、
僕も久しぶりにお酒を飲んだ。
ピッチが進んでいき、酔いも回ったせいか、
イケオジの老人に僕はどこか
懐かしさも感じるようになっていた。
そして酔いに任せて、僕がなぜ東京を離れたのか。
何を探しているのか、これからどうしたいのか。
脈略のないグチのようなものを話した、ように思う。
正直、そこの記憶は曖昧だ。
でも、はっきりと覚えていることがある。
それは、僕の話をひと通り聞いた後のことだ。
イケオジが僕を見つめて言った。
「キミは、自分の人生という物語の
主人公になれているのかな?」
数日たっても、その言葉は
心の中にこびりついて離れなかった。
いったい、僕は何がしたいんだろう。
考えをまとめたくて、
釣り竿を持って海に向かった。
取り急ぎ、仕事を再開しなくてはいけない。
移住の話をライターとして記録したい想いもある。
でも、その先は? 僕は何がしたいんだ?
着地点のない想いが頭の中を巡っていると、
浮きにピクッと反応があった。
おっと思って立ち上がった瞬間、
身体を持ち上げるような突風にあおられた。
そして、
僕は海の中に落ちたのだ。
ドボン
大きな音がしたあと、
静寂の世界が辺りを包んでいった。