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2023.04.21

1984

海の中は、とても静かだ。

釣りをしていて足をすべらせ、
海に落ちた僕は、足掻くこともせず、
身体がゆっくりと沈んでいくのに任せた。

遠くに見えるかすかな光。
自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。
不思議とおだやかな気持ちだった。

母親の胎内にいたときはこんな感じだったのかな。
あれ、走馬灯っていつ来るんだろう。
記憶の断片みたいなものが
フラッシュバックするんだっけ。

そう呑気に考えていた僕の背中に
突然、何か大きな力が突き上げてきた。

勢いよく体が持ち上がり、
遠くにあった光がみるみるうちに近づいてくる。

うわっ、なんだこれ!

あまりもの眩しさに目を開けると、
青い空が広がっていた。
キーキーという海鳥の鳴き声も聞こえる。

「よう、目が覚めたかい」

声と共に、半裸の男が視界に入ってきた。

うわっ!

びっくりして起き上がろうとしたが、
むせてしまい、鼻の奥がツーンと痛んだ。

「いや、びっくりしたぜ。
こんな沖に人がいるなんて」

なんとか呼吸を整えて、辺りを見渡すと、
どうやら僕は船の上に乗っていて、
海のど真ん中にいるようだった。
なんで、こんなところにいるんだ?

「眼鏡かけたまま水泳…ってわけじゃないよなぁ」
男はたくましい体にTシャツを着ながら言った。

「あの…あなたは?」
「おれは木村。木村善太郎。よろしくな」
「ぼ、僕は…」
「まぁ、とりあえず港に戻ろうぜ」
僕の言葉をさえぎるようにして、
木村と名乗る男は船を操縦し始めた。

船のへりにつかまりながら
僕は運転席の近くにトランペットが
置いてあるのを見つけた。

木村は船を操りながら大声で言う。
「おれ、ラッパ吹きだからさ。
海の上で練習してたんだよ。
海なら誰にも迷惑かかんねぇから。
そしたらお前を見つけたってわけ」

港に近づくと、大勢の漁船と人だかりがあった。
色とりどりの大漁旗が風になびいている。
あれ? 津田の港ってこんな感じだったか?

 

港につくなり、ベテランの漁師が木村に声をかけた。
「善ちゃん、またラッパか。
この忙しいときに、手伝いもせんで」
「まぁまぁ、あとでやるから」
木村は手際よく船をつないで
来いよ、と僕に目配せをした。

「そろそろサケ・マス漁が始まるからな。
もうこのあたりは大忙しよ」と木村。
僕は木村の言葉を聞く余裕を失っていた。
あからさまに街の様子がおかしかったからだ。

空き家だったはずの家や朽ちた倉庫も
見るからに新しくなって、大勢の人たちがいる。
その人たちの服装や髪型は、どう見ても現代的ではない。
港を走っている車も旧式のクラシックカーばかりだ。

「ちょっと!」と僕は、前を歩く木村の腕をつかんだ。
「今、何年何月何日ですか…」
「なんだよ、1984年4月1日だろ。
おっ、エープリールフールだな」

1984年。
その言葉に思考がストップした。
唖然とする僕に向かって
「おいおい、浦島太郎かよ」という木村の声が聞こえた。

「木村海産」と看板がかかった事務所に入り、
木村はタオルと着替えを出してくれた。
僕は無言のまま頭をふき、
出された熱いお茶を口にふくんだ。

1984年。
この数字が頭をぐるぐると回っている。
そんな様子の僕を木村は目を細くして見つめていた。

「なあ、あんた、この土地の人間じゃないよな」
「そうですね…」と空返事のまま答える。
「どこから来たんだ?」
「東京です」
「へー東京かい!シティボーイやなぁ」
木村は大袈裟に驚いて、明るく振る舞ってくれた。

事務所の外からは、漁師たちの大きな声が聞こえる。
「津田の漁師ってのは、なかなかのもんだぞ。
オホーツク海までサケ・マス漁に出るからな。
そもそも北海道の方で、銀鮭のいいやつが獲れる
漁場を見つけたのも香川船団だったんだぜ」

木村が事務所に飾ってある写真に目をやった。
1984年よりさらに古い時代の写真だろう。
木造の船の前で腕組みをする漁師たちが写っている。

矢継ぎ早に続く木村の話を聞いていくうちに
僕の心も徐々に落ち着きはじめていた。
いや、諦めに近い感情かもしれない。
ここでジタバタしたって、何も変わらないのだから。

「それで、おたくは何の仕事をしているんだ?」
ふと木村が聞いてきた。
僕はフリーライターという言葉が
この時代に通じるのか分からないまま言った。
「あ、ライターです。記事を書いたり…」
「おお、記者さんか。新聞? 雑誌?」
おそらくまだ、この時代にWebはないだろう。
「いや、この街のことを本にしたくて」
僕は咄嗟に嘘をついた。
「おお!そりゃいい。まずは
サケ・マス漁の取材ってわけだな。
うちには、しらす漁師しかいないけど」

僕は机に置いてあるトランペットを指さした。
「音楽の仕事じゃないですか?」
「いや、うちはじゃこ屋だよ。
ほら、じゃことジャズ、似てるだろ?」
そう言って木村は、ガハハハと笑った。
心が開いている人の笑いだった。

「そういやお前、もしかして財布も荷物も海の中か?」
僕は黙ってうなずいた。
「どこの宿に泊まっているんだ?」
一瞬動揺した僕は、また嘘をついた。
「ちょっと記憶が曖昧で…」
何かを察した木村は深く追及してこなかった。
「オーケー、飯でも食いにいくか」

木村と歩く町の様子は、
僕が見てきた津田とはかけ離れたものだった。
通りには人があふれ、多くの人が
漁に出る船団のために準備をしている。
仕事を終えた若い漁師たちが
カップ酒を片手にタバコをふかしていた。

僕は木村に対して、嘘を重ねていることに
心苦しさも感じていた。
でも、未来から来たなんて言ったら、
確実に頭のおかしい人に思われる。
今日はエープリールフールなのだから
少しの嘘くらい許されるだろう。

「よし、ここだ」
木村の足が止まった先は、
なんとジョーさんのお店だった。

「地元の連れが店をやってんだよ」
木村が扉を開けると
カランカランと音が鳴った。

「二人なんだけど、いけるか?」
「ちょうど暇になったとこや」と
ジョーさんがカウンターから顔を出した。
若々しいジョーさん。でも、どこか面影がある。

「こんにちは」僕は恐る恐る声をかけた。
ジョーさんは「おっ初めて見る顔やな」と
イタリア人のような笑顔を見せた。

もちろんこの時代のジョーさんが
僕を覚えているわけがない。
だって、ここは僕たちが出会う前の世界なのだから。
でも、知っている人が目の前にいて、
その人の若い時の姿を目の当たりにして、
過去に来た事実を突きつけられた気がした。

僕はもう、考えるのをやめた。
海の中と同じだ。沈んでいくのに任せるだけ。
この世界には、僕を知っている人は誰もいない。
それは僕が望んだ移住先の条件そのものじゃないか。

なるようになれ。

僕は木村と揃って、カウンターに座った。

こうして1984年の津田を舞台に、
僕の奇妙な生活が始まった。
これから語るのは、場所だけじゃない。
時間すらも移住してしまった男の話だ。